序章



「ちくしょーっ!またやられたあーっ!」
 見渡す限り緑の続く、深い森の中。生い茂る下草に、大の字に寝そべった人影は、腹の底からの大声でそう叫んだ。しかし、木々にこだまする鳥たちの鳴き声にかき消されて、いつまでも続かない。もう一度叫びなおそうとしたが、無駄だと気付いて取りやめた。
かわりに、小さく「ちくしょう」と呟いておく。
 全身に汗をかいていた。肌は上気しており、息をするたびに胸が上下する。人影は緩慢な動作で、顎にかかった止め紐を外すと、鉄でできた兜―――いや、ヘルメットを外した。とたんに、押し込められていた髪が、草の上にぶわっと広がる。渓流を行く清水を思わせる銀髪。まだあどけなさを残す端正な顔立ち。驚いたことに、無骨なヘルメットの下から現れたのは、まだ年端もいかない少女の顔だった。
彼女が、恥も外聞もなく、大声で罵声を上げていたのである。
 ただ、誰にはばかることもなかったのかもしれない。周囲には―――さらに言うなら、この島には、今彼女以外にはいないからだ。聞いているものがいるとしたら、言葉の通じぬ野生動物たちだけであろう。
 ゆっくりと左手を持ち上げる。左手には、大形のナイフのようなものが握られていた。しかし、半ばほどでぽきりと折れて、切っ先はどこかに行ってしまっている。
「あ〜あ、また失敗かあ」
 寝そべった少女は、空とナイフを見上げながら、大きなため息をつくのだった。


 船を下りて桟橋に足を着くと、いつも一度はふらりとしてしまう。それまで長いこと波に揺られているせいで、こればかりは何度経験しても慣れそうにない。なんとか転ばずに立ち上がると、とたんに景色が広がった。
真っ青な空の下、様々な人が行きかっている。材木を運んでいる人。頭に荷物を載せている人。雑談に興じている人。通行人に声をかけている露天商。小さな豚を追い回している裸の子供。
 …その中に、大きな瓶(かめ)を背負った青年を見つけて、少女は眉根を寄せた。今一番出会いたくない人に会ってしまった。気付かずに通り過ぎてくれないかと期待したが、それはみごとに裏切られ、青年は手を振りながらこちらに歩いてくる。
「うう…」
 最悪だ。
「やあ!」
 青年はこちらの都合などお構いなしに近くに寄ると、真夏の太陽もビックリの満面の笑みで挨拶をした。さわやかには違いないが、明るすぎて中(あ)てられそうだ。
「た、ただいま…」
 なんとか言葉を絞り出す。青年はうんうんと頷き、それから少女を頭の先からつま先までを見る。
「その様子じゃ、またダメだったみたいだね」
「…ゴメンナサイ」
 彼でなくても解っただろう。少女の格好は見るからにボロボロで、特に右腕の袖など脱落しかかっている。脱いで脇に抱えたヘルメットはところどころ凹んでおり、フチの部分は欠けていた。
 少女は申し訳なさそうに身を縮めたが、青年は笑いながら頭をぽんぽん、と叩くだけだ。
「ま、最初はみんなそんなもんさ。それより大きな怪我もなくてよかったよ」
「………」
 単なる慰めではなく本心なのだろう。だがそれ故に悔しかった。自分が、「他のみんな」とそう変わらない…それは少女にとって、歓迎すべきことではなかった。自分はもっと価値のある存在だと信じていたのに。眼尻に涙が浮かぼうとするのを、少女は無理やり抑え込んで、顔を見られないように下を向いた。
「ゴメン、…今日は帰って休みます」
「え」
 頭から青年の手を退けると、少女はとぼとぼと、自分に貸し与えられた小屋へと向かった。


 背中から倒れこむようにベッドに転がる。周囲には、ボロボロになった着衣が脱ぎ捨てられていた。真上には石でできた無愛想な天井。眼を開けていると今日のことが蘇ってきそうで、瞼を下して腕で覆った。抑えきれなくなって、眼尻から涙滴が流れ落ちた。息遣いが嗚咽に変わる。
 どうして、上手く行かないんだろう―――



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