一章
少女の名は、ユノと言った。西にある南エルデ地方から、このジャンボ村に見習いハンターとしてやってきたのが約二月前。ジャンボ村はここ数年で急激に規模を拡大してきた新興の村で、何人いても困らないというほどハンターを必要としている。モンスターの襲撃から集落を守ったり、他の地域との交易に使うモンスターの素材を集めたりとやることが多い。村には腰を落ち着けて仕事をするハンターが何人かいるが、狩りに出たり私用で村を離れていても緊急の依頼に対応できるように、今でもハンターを募集している。
ジャンボ村は経験者にこだわらず、初心者ハンターや、これからハンターを志す者にも広く門戸を開いている。長く村に滞在し、この村で経験を積むことで村に愛着がわき、より村を離れにくくなるからだ。ユノも、その募集に応えた一人だった。
村の専属ハンターには、簡素な家と初心者用の装備が貸し与えられる。この村のハンターは狩りに出続けている限り、家賃が免除され、食事など最低限の生活も保障されていた。狩りの内容は特に決められておらず、届いている依頼の中から選べばキノコ狩りのような簡単な依頼でもOKだった。むしろ…初心者ハンターはそうした小さな依頼をこなしながら経験を積んでいくのだ。ユノはその段階を終え、今はモンスターの狩猟に取り組んでいる。肉食竜、盾蟹といった小型モンスターの狩猟を終え、いよいよ大型モンスターに挑戦することになり、最初の相手として選んだのが《ドスファンゴ》であった。
頭目級大猪は凶暴な大猪、《ブルファンゴ》を統率しているいわばリーダーで、通常個体より大きな体と、白い体毛が特徴だ。群れのリーダーは食料や雌を独占できる代わりに、外敵に対して率先して排除を行う義務を持つ。そのため、同族ながら戦闘力は段違いだ。
最初の狩りの日。指定された《密林》の、周囲を湖に囲まれた小島に舟を着けたユノは大きな伸びをして砂浜に降りた。目の前には崖、そして左右には崖に沿うように小道が伸びている。ここは文字通り狩りの《拠点》となる場所で、ここには大型のモンスターだけでなく、小型のモンスターも入ってくることができない。入口は狭く、またモンスターの嫌う臭いのする香が焚かれているのだ。
ユノは舟から、一抱えもある青色の箱を降ろした。これには、依頼を遂行するにあたって依頼者や狩人ギルドから支給される道具や薬が入っている。このほかに、《納品箱》と呼ばれる赤い箱があって、こちらはキノコや薬草などの採取を求められた時に使用するが、今回のクエストでは関係がない。
箱を開け、中から道具をいくつか取り出し、砂の上に並べた。陶器の小瓶に入った《応急薬》と呼ばれる薬、油紙に包まれた《携帯食料》、手のひらサイズの《携帯砥石》、そして四つ折りにされたこの狩場の《地図》。ボウガンを使うガンナー用の弾は、意味がないので箱に戻した。道具は腰のベルトに取り付けられたポーチに入れる。《携帯食料》だけは包みを開け、口の中に押し込んだ。《携帯食料》は肉や野菜をドロドロになるまで一緒くたに煮て、その後乾燥させたもので、栄養はあるがぼそぼそしてあまり美味しくはない。水筒の水で無理やり流し込む。
灰色鹿の皮を元に、要所を金属で補強した、初心者用の《レザーライト》揃えの防具を確かめ、最後に頭が蒸れるためあまり好きではないヘルメット型の兜を被る。
腰の後ろには鞘に入った大振りの《ハンターナイフ》、右腕には剣とセットの円形の盾を装備した。それで、狩りの準備は完了だ。
「…よし」
乾いた唇を舌先で湿らせる。ユノは砂を蹴って駆け出し、左手の通路から飛び出した。
砂浜を走りながら、ユノは今日の狩りについて考えを巡らせる。《ドスファンゴ》は初めての相手だが、それほど恐れてはいなかった。通常体である《ブルファンゴ》は何体か狩ったことがあるし、特性も解っている。どちらも突進を攻撃手段としており、その力は強く金属製の鎧を凹ませてしまうほどだが、走り出して勢いがつくと止まることはおろか向きを変えることすらままならなくなる。なんとか止まっても、また突進するまでに向きを変えて狙いを定める必要があり、その間は完全に無防備だ。そうした隙を突いていけば、倒すことはそう難しくない。《ドスファンゴ》もそのはずだ。
長い砂浜を一直線に駆け抜け、岩山の角を曲がると、そこは打って変わって木々の生い茂る広場だった。しかし地形としては開けているが、木々と下草に足を取られやすく、視界も悪いのであまり狩りには適さない。ちょっとした木などまるで意に介さずへし折って突進するブルファンゴのことを考えると、あまりここで戦りあおうとは思わなかった。
広場を横目に、岩壁にぱっくりと口を開けた洞窟に飛び込む。洞窟、といっても狭いのは入口くらいで、中は抉られたように広大な空間が広がっていた。真ん中に広いテーブルのような岩板があり、その両側は底の見えない奈落になっている。ドーム状の天井は一部にぽっかりと穴が開いていて、そこから空が覗いていた。
「ここで待つか…」
頭目級と呼ばれるモンスターは、群れを守るために常に縄張りを巡回している。《ドスファンゴ》も、巡回のためにここを通るはずだ。無理に追いかけまわして戦いにくい場所で遭遇するよりも、ここで待ち伏せしたほうがやりやすい。
しばらくその場で待ってみると、南側の洞窟入り口から荒い鼻息と、重いものが地面を踏み締める音が聞こえてきた。
(…来た!)
岩壁の向こうから姿を現したのは、やはり、《ドスファンゴ》だ。見た目も、噂に聞いた通り。だが、その威圧感は予想していたよりもはるかに強大だった。
「……ッ!」
山のような巨体。天を衝く牙。一歩踏み出すたびに地面が鳴動し、眼球がぎょろりとこちらを一瞥しただけで、身体が射竦められたように動かなくなった。硬直したユノを尻目に《ドスファンゴ》は優雅さすら漂うゆっくりとした動作でこちらに向き直る。
まずい。
(…動け、動け、動け……っ!)
固まったままの体に命令を飛ばすが、一向に動く気配がない。このままでは数秒後、間違いなく《ドスファンゴ》の突進に轢き潰される。眼前で《ドスファンゴ》は前足で地面をかきはじめた。突進の予備動作だ。…そして。
「……ッ!」
甲高い金属音とともに、ユノの体は宙に巻き上げられた。後方を駆け抜ける、濃密な獣の気配。数時間にも思える刹那の滞空を通り過ぎ、小さな体は左肩から硬い岩盤に激突する。右腕につけた盾の表面が、抉れるように凹んでいた。
《ドスファンゴ》の突進が直撃する直前。ユノは辛うじて盾を構え、防御の姿勢を取ることができた。しかし踏んばることはできずに、鼻先で跳ねあげられてしまったのだ。しかし逆に、このほうが良かったのかもしれない。体重が軽かったため、激突の衝撃を受け流すことができたのだ。…もっとも、着地に失敗したのは些かお粗末だったが。
小さく呻いて起き上がる。もう、問題なく動く。多少は体が痛んだが、座り込んでいる暇はなかった。次の瞬間、ユノは体が汚れるのも構わずに、地面を蹴って目の前の地面に身を投げ出した。入れ違いに、今までいた空間を《ドスファンゴ》が薙ぎ払う。加速がつきすぎたのだろう、止まりきれずに《ドスファンゴ》は、洞窟の壁面に激突した。砂煙が上がり、ひび割れた岩壁がパラパラと崩れる。もし一瞬でも迷っていたら、壁と《ドスファンゴ》の間で押し潰されて、今頃はミンチ肉にされていただろう。
起き上ったユノは、壁に突っ込んだ《ドスファンゴ》を振り返った。《ドスファンゴ》は岩壁が崩れるほどの勢いでぶつかったにも拘らず、特に傷を負ったような様子もなく、平然と砂煙の中から現れる。なんという頑丈さだろう。
(…でも)
最初はその威圧感に負けてしまったが、一度動けるようになればこっちのものだ。《ブルファンゴ》と同じように、突進の後の隙を狙っていけばいい。ユノはドスファンゴを中心に、円を描くように移動する。直進的にしか動けない《ドスファンゴ》の突進を避けるにはこの方法が確実だ。
《ドスファンゴ》はきっかり三回、地面を掻くと、すさまじい速度で突っ込んでくる。ユノはその突進をかわすと、がら空きの背後を狙って《ハンターナイフ》を抜き放った。《ドスファンゴ》は振り返ろうと向きを変えるが、ユノのほうが早い。
「とった!」
上段に構えたナイフを、体重を乗せて《ドスファンゴ》に叩きつける。ナイフは毛皮を断ち切り、肉を引き裂く―――はずだった。しかし信じられないことに、ナイフは白い毛皮に押し返される。肉どころか体毛を裂くことさえできず、弾き返されて仰け反った。
…硬い。だが、まだ時間はある。振り返り、再び突進を始めるまでには余裕があるはずだ。
「え?」
腹部に強い衝撃を感じて、視線を下すと、胴を守る《レザーライトメイル》に《ドスファンゴ》の牙が押し当てられていた。体が浮き上がる。
突進を喰らった、と理解したのは数メートルも吹き飛ばされ、地面に叩きつけられてからだった。加速がついていなかったため、致命傷にはならなかったが、圧迫された内臓が悲鳴を上げている。息ができない。
ありえないことだった。次の突進までには、まだ時間があったはずだ。だが《ドスファンゴ》はごく短い間に向きを変え、ユノを撥ね飛ばしたのだった。咳き込んでようやく起き上がると、《ドスファンゴ》がゆっくりと向きを変えているところだった。轢かれる。
あのパワーでは、盾を構えても防ぎきれないだろう。ユノは軋む体を叱咤して、無理に駆け出した。跳躍。すぐ後ろを《ドスファンゴ》が通過する。受け身を取って転がり、すぐに立ち上がる。《ドスファンゴ》は信じられない速度でぐるり、と向きを変えた。
(なるほど。頭目級はダテじゃあないってコトね)
切れた唇から流れ出る血をぬぐって、ユノは《ドスファンゴ》を睨みつけた。
ただ大きな《ブルファンゴ》だと思っていたが、それは大きな間違いだった。大きいだけではない。賢さも他の《ブルファンゴ》とは一線を画していた。
間合いが近い時は、威力は低いが隙の小さい突進を。間合いが遠い時は、狙いを定めて威力の大きい突進を、それぞれ使い分けているのだ。いつも、ただ全力で突っ込んでくるだけの《ブルファンゴ》とは大違いだ。
「なら…」
ナイフを鞘にしまい、距離をとった。隙の小さい攻撃と、隙の大きな攻撃。二つがあるのなら、見極めて隙の大きなときだけ攻撃すればいい。
《ドスファンゴ》はその巨体を唸らせて砲弾のように突っ込んでくる。しかし、回避に専念していれば避けるのは難しくない。突進をかわし、背後を取った。どうだ…?
《ドスファンゴ》の振り向きは早い。まだだ。攻撃のチャンスではない。案の定、数瞬も開けずに突進をかけてきた。回避。《ドスファンゴ》が目前を駆け抜ける。距離が離れた。
(たぶん…来る)
確証はない。ただ、小突進をするには少し間合いが遠い。この距離なら、より大きな威力の突進を繰り出してくるはずだ。ユノはいつでも抜けるようにナイフの柄に手をかけると、《ドスファンゴ》を中心に円を描くように移動する。《ドスファンゴ》は走り出さない。前足で地面を引っ掻きながら向きを調整している。大突進の予備動作だ。
次の瞬間、視界のなかで《ドスファンゴ》が大写しになった。さすがに速い。しかし、来るとわかっていたのだ。避けるのは難しくない。体勢を崩さないように気をつけながら、通り過ぎた《ドスファンゴ》を振り返る。《ドスファンゴ》はつき過ぎた勢いを殺すために、足を踏ん張って制動をかけていた。狙っていたのはこのチャンスだ!
背後から駆け寄り、《ハンターナイフ》を抜き放った。また、あの硬い毛皮に弾き返されないよう、今度は少し力をセーブする。ナイフは棍棒ではない。刃物だ。ユノは硬い毛皮に打ち込むと、そのまま切り返す。無理に叩きつけなくても、刃で「切断」すればいい。
ずば、とナイフが毛皮を薙いだ。硬い毛皮は鎧のようにナイフを受け止めたが、無傷ともいかなかった。数本、太い毛が切られて宙に舞う。いける。
あまり欲張っても危ない。ユノは一旦《ドスファンゴ》から離れて、距離をとった。振り返った《ドスファンゴ》が突進をかける。調子に乗って攻撃を続けていたらあれに当たっていたかもしれない。だが無理はしなくてもいいのだ。相手は、人間などよりはるかに強靭な生き物なのだから。
何度か同じことを繰り返して、ユノは徐々に戦闘のテンポをつかみ始めた。《ドスファンゴ》が次にどう動くか、わかる。小突進、大突進を見極め、大突進のときだけ攻撃する。その時には、できるだけ先に攻撃した所と同じ場所を狙った。徐々に体を覆っていた毛が刈り取られていき、地肌があらわになる。それでも攻撃を続けると、表面にじんわりと血が滲み始めた。モンスターは人間よりはるかに強靭な生き物。でも、不死身ではない。
何度か目の攻撃を加えたとき、《ドスファンゴ》ははじめて苦しげな声を上げた。倒れこそしなかったが、態勢を崩してよろめく。効いているのだ。
チャンスとばかりに畳みかける。意識を集中し、ひたすらに剣を振り続けた。それでも、突進を避けられるように回避の用意だけはしておいた。振り向こうとすればわかる。…しかし。
一瞬、意識が真っ白になった。体が空中に巻き上げられる。意識の戻った空中で《ドスファンゴ》を見下ろすと、白い巨体が頭を左右に振って牙を振り上げているのが目に入った。あの牙で空中へ放り投げられたのだとわかった。
(ウソ…)
知らない攻撃だ。《ドスファンゴ》があんな攻撃をするなんて、思いもよらなかった。たとえ突進を使い分けようと、それだけが能だと思っていたのに。
勝手な思い込みだった。考えてみれば《ドスファンゴ》に出会ったのは今日が初めてだったのに。突進しかできないと思い込んでいた。
当たり所が悪かったのだろうか。痛みはほとんどないのに、身体がうまく動かない。ユノの体は満足に受け身も取れないまま、硬い岩の床へと転がった。
たまたま首が、《ドスファンゴ》のほうを向いていた。《ドスファンゴ》もこちらを見ていた。今突進を受ければ、避けることも防御することもできない。ただ轢き潰されて終わりだ。ああ、死ぬんだ。そう思って目を閉じる。あと数秒もしないうちに、自分は赤い肉塊に姿を変えるのだろう。あっけないものだ。
死を覚悟して力を抜いて。しかし、覚悟していた瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。不思議に思って目を開けると、《ドスファンゴ》はこちらに背を向けて洞窟から立ち去ろうとしているところだった。
《ドスファンゴ》は雑食だが人間は食べない。たぶん、動かなくなったユノを見て、脅威ではないと判断したのだろう。ただそれだけ。
しかしユノには、まるで情けをかけられたように思えた。野生動物に。お前など殺す価値もないと、そう見下された気がした。
眼尻に浮かんだ水滴が、こめかみに流れた。血の滲んだ唇をきつく噛みしめる。
「ちくしょう…!」
力いっぱい叫んだはずの怨嗟は、しかし、かすれた声で口から洩れただけだった。